御座を語る人たちシリーズ(馬杉宗伸)


昭和27〜29年、御座小学校に教員として赴任
「志摩郷土会」(ただし現在では存在しない)のメンバー
地蔵池(現在消滅)にてブチサンショウウオを発見


1.ブチサンショウウオ  郷土志摩第7号1953年(s28)に掲載

 珍らしい物がとれると、すぐ知らせてくれる、受持の子供たちが、「先生、腹の赤くないイモリが居るよ。」と教えてくれたのは、確か、六月半ばの、或る暑い日だった。
 海抜四〇〇米もの山間に住んで、サンショウウオに少なからず興味をもっていた私は、すぐ、ハッと思った。−−こゝにも、サンショウうオの居る懐しさ−−。
 私は、早速、手にいれたかった。だが、或る考えが、私の頭を横にふらせた。それは、こんな低地に、而も、暖地に、サンショウウオの住める訳がないと思ったからだ。ここで、すべてのサンショウウオについて触れる事はさておいて、ハコネサンショウウオが、最も渓流を好むようであるが、ブチサンショウウオとても潮風を受ける此のよぅな土地に、生息している事は、妙な事実である。
 それから数日、ふと、子供が竹の筒に入れて来たのを見ると、まぎれも無いブチサンショウウオではないか。驚異! 時、当に六月二十八日、すぐ飼育を始めて見たが、不覚にも猫族のねらう所となったのであった。雑事に忙殺され、書物で調べることこそすれ、発見現場にいってみる事は出来ずにいた五ケ月。
 昨年十一月十一日、伊勢志摩国立公園、科学調査団として、岡田弥一郎博士が、角田保氏を従えて、ひょっこり、来られた。
 「今日は、魚じゃなく、両棲類を調査する為に、」という話。「実は、先生これこれ」とお話しても、「そんな馬鹿な」といって笑って居られる。とりあって下さらない。「それでば、現場へ」、という事で、子供二人をガイドに、やって来たのが『コロドンの池』。 
 池は丁度、四〇糎ばかり、水をたたえて、アオミドロの群棲する内には、幾ら探しても、それらしい姿ば見られなかった。愈々、嘘をついた事になるのかと、土くれを堀りかえしているうち、甘藷のつるの束ねてある下から、出てくるでは無いか。一大歓声をあげつつ捕らえる事、十二、三.博士は、それを、水草にくるんで、持ち帰られたが、実験室でのサンショウウウオ達は、今や、、冬眠中で、そろそろ、活動の徴が見えて来たそうである。
 今や、その池はかわいている。一滴の水だも無い。その堤で、彼等は、風あたりの少い方にかたまって、冬越の夢を結んでいる。普通、三,四月頃、産卵するのであるが、気候、風土の関係から、どう変化が見られるか?満水と産卵の関係はどうか?等が問題であろう。それにしても、図(注:省略)が示す如く、風向その他の條件から、塩分皆無とは言えまい。尤も、水については、満水後の水質検査にまつより他ないが……。
 此の頃、話にきくと、和具、神明でも発見されたとか。注目の調査結果が、ごく日常茶飯事だったという所へ、帰着するかも知れない。いままでの説明は、くつがえされるかも知れない
 然し、現今以前の学界で、サンショウウオが、渓谷の淡水に棲むことに、なっているとしてみれば、この原則を覆す上に、重大な意味を持って来るであろうし、発見現場ゴロドンの池は、学界でのゴロドン池になろであろう。
 岡田博士は、次のように述べられて居られる。
   同サンショウ魚は中部以南および、四国、九州の北部の山地に分布し、山間の硬質の石の下に、三、四月頃産卵する。塩分の中では全然、生きられず、塩分が入り易いこの沼に住んでいるのは、興味深いことだ。


2. 御座懐古    郷土志摩第7号1953年(s28)に掲載

 湾頭、波穏かに、風のどかな一月十八日、志摩郷土会の主催で『御座村見学会と講習会』が、催された。参加をするの幸を得た私達、ここに感想の一端を述べるに先立ち、事に当り、研究に関わられた会員諸賢,就忠、ウンチクを傾けて御講演を賜った鈴木先生、並びに、中村、中岡の三氏に、衷心より謝意を表したい。
 村及び村教委、P・T・A後援という事であったが、昼間の忙しさ、村人で見学会に参加したのは、さして多いという程ではなかった。夜の講習会には、潮音寺の堂は、大入の盛況、小、中、高校生の姿も見られ、熱心に傾聴したものだった。かくして御座の古代文化は、参加者に、事実を以って、紹介された。それまでの私共は、古代人の生活を知るに充分な資料を持ち乍ら、見乍ら、その歴史の片鱗だも、つかんでいなかった。此の日以後、村人の関心、いやがうえにも、大なるを思う。
 ざて、アゴ湾口白浜に佇めば、波に削られた砂丘の断面に露出する巾丈余の貝塚、そのそこここから現れ出る土器、人骨。
 ―――最も新しい人骨の発掘は昨年十二月七日午後だつたか―――
 思えば、此の浜に、波の音を聞いてい寝、聞いて起き、きいて働いたであろう先人の面影、波頭にたわむれたであろう幼子の姿そして築いたてあろう歴史。ああ、そも幾星霜の歴史ぞ。風に驚き、波に戦き、地震、雷鳴におびやかされた事も、両、三度ではなかったろう。今や、波の子守歌で、その霊は限り、その体躯は白骨化して、無情をかこち、貝や砂の間に、見えかくれする寸片に、昔日の俤を留めている。
 踵を返して、金比羅山の頂に立てば、一湾の風光、眼下に横たわり、しぱし、見る者を恍惚の境に誘う。この丘に立って、自然の万象を、畏敬のうちに眺めたであろう人々の姿を想起し、胸に迫るものを覚える。
 又、国崎に歩を移せば、村人の「人穴」と呼ぶ古墳あり、一叢の樹間に口を開いている。葬られた人の上、やんごとない人の奥墓であったろうに、等と考え乍ら、夢中でのぞき込んでいる私の頭の中を、何故か、「英雄墓は苔生しぬ」ふと浮んで消えて行った。而し、その形から言えば、これを見つけた村人が、何も知らずに、「人穴」と呼び、住居跡であったと考えるのも、宜なる哉である。
 「人穴」から程遠からぬ台場には、海岸防備の跡既に無く、名もない草のいく種類かが、四季折々の粧を見せている。
 又、人里に帰り、御座神社の社頭に額づけば、うっ蒼たる槇の大樹、老樹等林立して、西宮の往時を物語る。東西両宮相対して鎮座し、そのそそり立つ社殿に、日夜奉仕し、大規模な祭祀を営んだであろう当時の様、只もう、懐しさと、敬慕の念で一ぱいである。
  ここにある神宝諸口須恵が三重県第一位のものであることは此度初めて知る人が多かろう。
 弘法大師に縁を持つという、爪切り不堂も、種子石の由来を聞けば、落し得ぬ資料、見逃し得ぬ逸物である。イカ浦に歩を伸す事が出来なかったのは、残念であった。
 歳月流れ去って、世紀ははや二十を数えた今、発見される一片の石にも、一個の貝がらにも、土器の端にも、白骨の十余の断片にすら、先人の生命は連っている。血潮は流れている。歴史がある。夢がある。過去もある。秘密もあろう。涙もあるに違いない。これらの資料から、今、改めて、それ等が雄弁に物語る。無言の教示を聴いたような気持になるのである。
 『風水、相打ちて、波を為す。隻手の、鳴らし難きが如く、感興は、書斎の閉居に生ずるものにあらず。自然は、来りて見る者にのみ、興趣を授け、質問を発する者にのみ、答弁を与うる者なり』
とは、確かに山路愛山のことばであったろう。誠に而り。意義ある一日であった。
 そのかみの人々が、今も尚、吾々の体に、流れて血潮となり、凝って骨肉となり、潜んで霊となっている以上、私共は、先史時代からの人々の純な心を○とし、日夜、業務に勤むと共に、此れら、有形、無形の文化遺産の保存に、これ努めねばならぬ事を、今更の如く、痛感させられるのである。
 色々な意味で、大層、有意義な会であったと言える。かかる機会が再々与えられる事を期待してやまない。
 最後に、後援という名を持ち乍ら諸事不行届、諸賢に多大のご迷惑をかけた事を、おわびします。
   二月一日
     御座村教育委員      山 川 藤 四 郎
     御座小学校教務主任   馬 杉   宗 伸
     御座育友会(PTA)係
  附記 当日の参加者 竹内(久)・上付・中村(゛)・中岡・平川・大畑・長尾
        西世古・谷口(竜)・谷口(治)・伊藤(治)・馬杉・森崎・小川・
        浜野・佐々木・井上・鍋島・大形・正木・西井・酒井萬馬・(津市)                    鈴木の諸氏

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